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ガイドウォークの入り口のゲートでまず目にする木について聞かれて、葉っぱを見て何の木なのか考えたのですが答えは当たらなくて、木の名前を分かりませんでした。その木には実がなっていてそちらを採ってかじります。柑橘類でジュースとしてや焼酎のフレーバーになっているシークワーサーの木でした。フェンスの入り口から入っていくと、まず湿地帯が広がっています。この日はあまりカエルの鳴き声は聞こえなかったのでしが、リュウキュウカジカガエルなどがいるそうです。よく見てみるとオタマジャクシやイモリがいました。やんばるの森は私の住んでいる関東地方よりも暖かく、蘭が自生しています。園芸用のランというととても種類が多いです。木の上のコケにではなくて、地面に生えています。あまり雨が降っても水分を吸収しないですし、栄養分も乏しい赤土の表面は植物があまり生えていません。そこに食虫植物のコモウセンゴケが点在しいました。人の身長く...
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明治時代に入ると武士を辞めた人、東京に上京して来た多くの人がいましたが、その中にも多くが食にあぶれてしまっていました。新しい土地を開墾するという政府の方針のもと、江戸時代には牧場として使われていた鎌ケ谷に新たに入植者が移り住んできます。千葉県の開墾地には入植順によって、番号の付く地名が付けられています。初富(鎌ヶ谷市)、二和(船橋市)、美咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、、、、、十余一(白井市)、十余二(柏市)、、、鎌ケ谷市郷土資料館今回訪れたのは最初に入植が始まった鎌ヶ谷市の初富。残りは近隣の市の入植地を列挙しました。農業を始めるというのも、思う以上に大変なこと。鎌ヶ谷のこの辺り一帯は大地が広がっています。手賀沼や印旛沼などの湿地帯は江戸時代に開拓されて水田が広がっています。その時代には農業としてはあまり手が付けられていない残りの土地に、しかも今まで農業をして...
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戦争で傷ついて送られてきた兵隊を看護するために、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人と教師18人は南風原にある沖縄陸軍病院に配属されました。病院といってもそこは、丘の斜面に横穴が40近く掘られ粗末な二段ベッドが備え付けられていただけの施設でした。3月23日には米軍の艦砲射撃が始まりました。米軍が沖縄本島に上陸し戦闘が激しくなるにつれ、負傷兵は増えつづけ、生徒たちは寝る間もほとんどないまま昼も夜も働き続けることになりました。看護だけでなく、弾の飛び交う壕の外での水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬などの仕事もしなければいけません。ひめゆり平和祈念資料館の前に来て、建物の塀と道路と雲の白さと青空の青の色が、普段私が目にする風景の色とは違っているように思われました。入り口から奥にまっすぐと進むとひめゆり学徒隊の慰霊塔があります。前でお参りしようとすると、たくさんの献花が備えてありま...
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洞窟へは今までに何度かいったことはあるのですが、陸から海への切り立った断崖にある青の洞窟へ来ました。ツアーの待合室で水着の上からウェットスーツを着こみ、マイクロバスで港まで移動します。私たちの組にガイドさんは2人いて中国語を話していました外国からの参加者も数名いた国際色のあった一行。シュノーケルのくわえ方や水が入った時の出し方など器具の説明や注意事項の説明を受けた後、ライフジャケットを着こみ出港します。5分ほどボートで走ると海面にもかなり大勢の人が浮いています。初めてで準備をしてこなくても、気軽に参加できる人気スポットの様です。陸地の階段の上の方から人が列になって並んでいる様子も伺えます。真栄田岬の階段を下りそこから泳いで青の洞窟へ向かう方法もあるようです。フィン(足ひれ)を装着し、ゴーグルと一体型のシュノーケルを付けて入水です。船のへりに腰掛け、横に半回転して脚を船外に向かてから海に飛び...
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羽生から秩父線に乗り行田市駅へと降ります。駅からの道を歩きだして洋風な建物に十字路の所へ来て至たのが、武蔵野銀行行田市店。普通に雰囲気のある建物です。水で囲まれた忍城(おしじょう)。まだ距離があるところから白色のお城が見えます。お城の敷地は現在市役所などのある地点も含め、現在天守閣のある位置だけでなく、もう少し広範囲に及んでいました。戊辰戦争の戦火を逃れた忍城でしたが、明治六年の廃藩置県で忍藩がなくなった後、建物は競売にかけられ、土塁の面影を残すのみでした。忍城は1479年頃までには、成田氏によって築城されたと記録されています。以後この地域を成田氏は約100年統治します。1580年豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成による水攻めの攻撃を受けます。秀吉の高松城の水攻めを模して三成も行ったようです。地元の農民が反旗を翻せば、水を貯めた堤も決壊させられるので、頭で考えた作戦如何ではなく、人がどう思...
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以前訪れたのは、夏の終わり頃の海辺。車で本須賀海水浴場へ来て波打ち際を見ていただけの記憶でした。サーフィンを何人かの人たちがしていたように思います。今回電車で訪れた成東。千葉から銚子へ向かう途中にあります。2006年の成東町、山武町、蓮沼村、松尾町の町村合併 により 現在は山武市となっています。駅前のロータリーから歩きはじめ橋を渡るくらいから、小高い丘の斜面に見えてきた朱色の建物、浪切不動堂です。全国のサーフィンの神様なのではないかと思いますが、かつて本堂の真下までが海で、波を切る巌のうえに建てられたが名前の由来だそうです。不動尊本尊の由来は、天平年間に行基菩薩を造作したところのものと伝えられています。小高い山は標高30mの石塚の森です。階段を降りて道路へでると向こうの方の右手から、子供たちを先頭に衣装に着飾って、大人はほら貝を吹きながらこちらへ向かって来ました。15分ぐらい私たちも歩道の...
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新記録の更新に次ぐ更新で話題になっている日本選手権 水泳競技大会 競泳競技 が日曜日まで開かれていました。私は土曜日の夕方から、準決勝・決勝は6:30からの部を観に、辰巳国際水泳場(新木場)まで行ってきました。この日(4/7)が準決勝になっていた種目が先に行われたので、程なく池江璃花子が100m自由形に登場です。準決勝から本気モードで泳ぐものなのか、少しゆっくりめに泳ぐような気もするのですが日本新記録53秒46が出ました。翌日の決勝でも100m自由形で更に記録を縮め53秒03の、日本新記録を再び出しています。100メートルバタフライでも56秒38の日本記録を出しています。日本の水泳は平泳ぎと背泳ぎが世界的には強いですが、池江選手は日本人の弱い方が強そうと個人的には思っていました。今回のタイムはリオオリンピック決勝で泳いだと仮定すると100m自由形では4位、100mバタフライでは2位(銀)に...
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丹波国の上杉荘(京都府綾部市)で生まれた足利尊氏が六波羅探題を滅ぼした後、京都から鎌倉や地方に軍勢を率いたり、攻められて京都から落ち延びたり、いない間に占拠され京にはすぐに戻れなかったりと、室町幕府の初期の頃は行ったり来たりしています。新田義貞に負け九州へ下り、弟の直義追討を図り南朝と和睦して鎌倉へ進んだ折も、南朝の裏切りによる京都の奪取が繰り返しあり、直冬(尊氏庶子で直義猶子)の大攻勢があった時にもまた一旦京を放棄しています。その時の直冬との合戦で受けた矢傷により、尊氏の背中の腫れ物ができ、54歳の時に亡くなっています。今回訪れた等持院は足利将軍家歴代の菩提所となっています。本尊である利運地蔵尊(伝弘法大師作)、達磨大師と開山した天龍寺の夢窓国師とを左右に足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置されています。現在、方丈・霊光殿・清漣亭が耐震補強工...
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台風が襲来間近だった昨年の秋、雨風をよけて色々と勉強もできる行き先へ、道すがらは少し心配もありましたが向かいました。草津駅前からでる近江鉄道バスは出発15分前。ハンバーガーをテイクアウトしお釣りは、この天候の中にいた学生さんのあしなが育英会の箱へ寄付しました。2、3日の間に降った水をこの辺り一帯の田んぼと琵琶湖の面積に蓄えられるとすると、洪水はこの近辺では大丈夫なのかもしれないと思ってみたり、琵琶湖の水位を10センチ上げる降水量は、流れ込む周辺河川を入れてどれぐらいだろうとバスの中で考えていました。滋賀県立琵琶湖博物館へバスが到着し、道路脇から博物館の屋内へ入るまでに着ていた服は相当に濡れてしまいました。入り口のチケットブースで"水生植物公園みずの森"の共通チケットを勧められましたが、天候が天候なだけに、屋外での観察は今回は無理でした。こちらは、草津市の施設ということで、また別なのだと言っ...
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木製の風情のある新海三社神社の鳥居の脇を通りました。マイクロバスのなのでそのまま通過してしまいました。ここから大ケヤキと大スギが立ち並ぶ参道を登ります。新海三社神社坂の上を上がった駐車場から拝殿へと上がる石段までの道には、佐久の酒、18銘柄の樽が2段になって納められています。この辺りの上空は木々から抜け出ていて、晴れの日の光が届いていました。石段を上ると拝殿が正面に見え、その脇に神楽殿が見えます。夏越の祓の"茅の輪くぐり神事"当日で、神社の方が慌ただしそうに動き回られていました。新海三社神社には、源頼朝の社殿修理再興の口碑、武田信玄が箕輪城攻めのために行った戦勝祈願の願文も残されています。三重の塔は室町時代の1515年に神宮寺の塔として建てられ、明治時代には神社の宝庫となり廃仏毀釈を免れて、創建当時の姿を現在も見せています。主神は興波岐命(おきはぎのみこと)で、新開神(にいさくのかみ)とも...
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